雪混じりの冷たい雨が降る12月26日。
その子どもは捨てられていた。
母親に手を引かれてその公園を歩いていた銀色の髪を持つ小さな子どもは、ふとそれを見つけた。
「おかあさん、あそこ、なんかいる」
子どもが指差した先は公衆トイレ脇の大きな木の下、小さなダンボールが置かれていた。
母親は犬や猫が捨てられているのだろうと、息子が飼いたいなどと言い出したらやっかいだと思いそのまま進もうとしたのだが、子どもが手を離してそのダンボールへ駆けていってしまった。
「三成!」
母親の声に構わずダンボールの中を覗き込んだ石田三成は、その中の物体をじっと見つめた。
雨に濡れて、小さな三成から見ても小さな塊。
三成はその塊に手を伸ばした。
冷たい。
三成は、つい先日死んでしまった小鳥を思い出した。
「ぅわぁあぁんっ」
「三成!どうしたの!?」
「やだぁいなくなる、おいていくなぁ…っ!」
三成の母親は、突然の三成の嘆きに慌ててダンボールの中を確認し小さく悲鳴をあげた。
そこには生まれたばかりと思われる人間の赤ん坊が、いた。
こんな寒い日に雨の中ダンボールに入れられて捨てられているとはいえ、上質そうな布に包まれ、赤ん坊の横には葵の紋と名前らしきものが掘られた短刀もあった。
それが何なのかを知る由もないが、母親は警察と救急車を呼び、泣き止まない三成を連れて帰った。
3日後。
三成が行方不明になった。
まだ4才の子どもがいなくなったとあって屋敷内は騒然とした。
石田家は旧家で使用人も多くいたが、年の暮れで皆忙しくしていたせいか誰も見ていないという。
外は冷たい雨が降っており、足跡も見当たらないが誘拐も考えられるため警察にも連絡して総出で探した。
夕方になってようやく連絡を受けて見つかった三成は、ある病院にいた。
どこをどうやって見つけたのか、そこにはあのダンボールに捨てられていた赤ん坊がいたのだ。
保育器に入れられた赤ん坊を、三成は背伸びをして窓からじっと見つめていた。
それから1週間の間に三成の行方不明騒ぎが2回起きた。
通算3回めの時には病院ではなく、その赤ん坊の身柄はある孤児院に移されていて、そこもどうやって見つけたのか三成は孤児院に入り込んでかの赤ん坊を見つめていた。
そして4回め、ついに事件は起きた。
いつも三成がいなくなるのは雨の日だった。
その日は雨ではなくこの地方には珍しい雪が深夜から降り続いていて、大雪警報も出ていたほどだった。
三成から目を離さないように交代で複数で使用人たちが見守っていたにも関わらず屋敷を抜け出したようだった。
何度も行方不明騒ぎが起きてはいたが、毎回行き先は同じとわかっていることに少しの安心があったからなのか。
だが、その日は違った。
件の孤児院に連絡してみれば三成は来ていないという。
慌てた石田家の人々は、三成が戻ってきた時のために母親とお抱えの医師だけを家に残し全員で捜索に出た。
当然警察や消防にも捜索願いを出した。
そうして見つかったのは、橋の下の川縁だった。
足を滑らせて落ちたのか、子どもの三成はすっかり雪に埋もれていて、視界も悪い雪の中で見つけることができたのは奇跡に近かった。
更に運の良いことに、見つけたのは消防隊員で彼の手早く慣れた蘇生術によって三成はなんとか一命をとりとめた。
その道は間違いなくあの孤児院に向かう途中であった。
この件を機に、石田夫妻は跡取りの一人息子の身を案じて、ついにあの赤ん坊を引き取ることを決めた。
幸い金にも人手にも困らない石田家だ。
人ひとりを預かるには重い責任が伴うし、何がそんなに幼い三成を駆り立てているのかもわからないが、一人息子がこれ以上危険な目にあうのは避けたい。
そうして、”徳川家康”と刻まれた短刀を持ったその赤ん坊は石田家の養子となり、”石田家康”となった。
これは余談だが、三成を見つけた消防隊員いわく、視界の悪い雪の中で三成を見つけることができたのは、彼の側で蛍の光のようなものを見たおかげだったという。
それからふたりはいつも一緒だった。
弟ができたことになる三成は、自分も小さいながらも家康の面倒をよくみていた。
音の鳴る子ども用のおもちゃを家康の前で振ってみたり、ミルクを飲ませるのを手伝ってみたり、おしめを取り替えるのも手伝ってみたり、家康に関するすべてのことを三成はやりたがった。
家康の世話を任せられている乳母と使用人たちはそれを微笑ましく眺めていたものだが、三成がいない時に家康に対して何か世話しようものなら睨むように不機嫌になる子どもに少しばかり奇妙には思っていた。
対して家康は、いつも笑っていた。
何がそんなに楽しいのか、きゃっきゃと赤ん坊が笑っているのは家に幸福がもたらされているようで使用人たちも三成の機嫌を損ねない程度に家康を可愛がっていた。
使用人たちも多くいるため、ふたりは幼稚園や保育園などは経験せず、三成が初めて家康から長い時間離れなければならないことになるのは小学校にあがった時だった。
登校する初めての日など、今生の別れのように玄関前でふたりで泣いていた。
それを見た使用人たちもまた涙ながらに三成を見送った。
三成が学校に行っている間、家康はよく使用人たちについてまわって屋敷内を走り回っていた。
活発な元気な子でいつも楽しそうに笑っていたが、うっかり転んだ時などは一度はぐっと耐えて唇を引き結ぶが、使用人に手を差し出されると安心するのかやっぱり痛いと泣きだすものだった。
ふたりの様子が少し変わったのは家康が小学校に入学する時だった。
三成は地域で有名な私立の学校だったが、三成の両親は家康は公立の学校にいれたのだ。
石田夫妻としては三成のために家康を預かっているだけであって、不自由させるつもりはないが教育面などで三成と同じように育てるつもりはなかった。
既に5年生になっていた三成は、当然同じ学校に一緒に通えると思っていたのだから両親の決定に反発しひどい大喧嘩をした。
それを見ていた家康が三成に抱きついて大泣きしたものだからその場は仕方なくおさまったが、三成はそれから両親に対してよく反発するようになった。
石田夫妻の決定は変えられず三成とは別の学校に通うことになった家康だったが、そこでもまた少し問題が起きた。
似ても似つかない兄弟のことを勘ぐられたり、引き取っているとはいえ三成と同じように愛情を向けているわけではない三成の母親が自分が産んだなどと嘘を言いたくないために、家康が孤児であり石田家の養子であることを石田夫妻が自ら公言していたため近隣住民は知っていた。
家康は地域の公立学校だから、クラスの子どもたちもそのことをみんな知っているのだ。
住民たちは石田家の人間の前で言うことはないが、それぞれの家の中や幼稚園保育園などの送り迎えの際に近所の人と会えば、金持ちの家に拾われて運のいい子などと言われていたのだろう。
大人たちの噂話は子どもたちにも感情ごと伝わり、家康は小学校にあがってからよく服を汚したりケガをして帰ってくることがあった。
石田夫妻は特に声はかけず使用人たちが慌てれば、家康は笑顔でちょっと転んだだけと言い、少し遠い学校に通っている三成が帰ってくる前に、いつも家康は服を着替えてきれいにして待っていた。
三成が帰ってくると、玄関で抱き合ってそれから一緒に夕飯を食べるのが常であり風呂も一緒に入るのだが、家康はいつも擦り傷などを三成に見せないように気を払っていたおかげで三成は気付くことはなかった。
それでもある日、家康のケガに見かねた父親が自分でなんとかしろとでもいうように空手を習わせるようになり、家康が学校から帰ってきて三成が帰ってくるまでの間、家に師範を呼んで稽古をつけていた。
実は三成は剣道を習っていて家康も一緒に習ったこともあるがあまり合わなかったらしく三成の稽古を眺めているだけだったが、どうやら空手の方は性にあったようだった。
そのおかげなのか、生来の明るさと笑顔のおかげか、学校でそういったケガをして帰ってくることはなくなった。
三成が高校生となり家康も高学年となっても、ふたりはできる限り一緒にいた。
部屋は別々にあるけれど、寝る時だって一緒だった。
布団の中で、三成が自分より小さい家康を背中から抱きしめている。
石田家に勤めているなかで家康のことを”拾われた子”だと言う者はいなく、みんな三成と同じように大切な坊ちゃんとして接してくれていた。
けれど、家康自身は石田夫妻とみんなに感謝しながらもどこか一線を引いていた。
それでもいつも笑顔でいられたのは、三成のおかげだった。
三成がいるから、三成のために。
「何を考えている…?」
「…ん?三成といられてよかったなぁって」
「何を今さら」
「だってわしは三成に見つけてもらったから今こうして生きているんだ。三成がいなかったら生まれたその日に死んでたわけだし」
「私は呼ばれた気がしただけだ。泣きそうな声で呼んでいただろう?」
「…どうだろう。赤ん坊の時のことなんて覚えているはずがないよ」
成長して昼間一緒にいられる時間が減ったふたりは、こうしてゆっくりとあたたかな布団の中でただ抱きしめあって眠る時間が、とても幸せだった。