【徳川家康の涙】
汗ばむ季節になってきた頃、国替を命じられて江戸にいたワシに大坂から招集がかかった。
重家を三成の元に置いて江戸にいるワシだが、三成は七日に一度は会いに来てくれる。
三成の俊足に当然重家はついてこれないから重家に会うのも久しぶりだ。
実は妊娠37週めのワシは忠勝での移動も少し辛い。
忠勝にはいつもより速度を落としてもらって無事に大坂に入った。
呼ばれた部屋には秀吉殿、半兵衛殿、三成、そして官兵衛がいた。
官兵衛に会うのも久しぶりだなぁ。変わらず元気そうで何よりだ。
「さてみんな、集まってくれてありがとう。家康君、身重のところわざわざ江戸から呼び出して悪かったね」
「いえ、ご心配には及ばず」
半兵衛殿のいつもの調子によって始められた談合だが、その内容はワシにとって青天の霹靂、そして今後のワシの在り方を揺るがす一大事だった。
「唐入りする」
秀吉殿の言葉が重くのしかかる。
有り得ない。
今、確かに日の本は秀吉殿の力によって一つになろうとしている。
けれど、長きの戦乱の時代のせいで民も土地も兵も何もかもが荒んだままなのだ。
民の生活を顧みず海を越えて外の国にまで手を伸ばしあまつさえ何の関係もない土地に戦火を広げ民の命まで奪おうと、そう言うのか。
ワシが信じて従ってきた豊臣とは、そんな愚かな考えに至るものだったのか…!
ここにいる者の中で反対するのはワシだけだろうと、二人はわかっているはず。
なぜこの場にワシを呼び、どう出るか伺うかのようにワシを見る。
今になってワシを試そうというのか。
ふと、昔に聞いたお市殿の言葉が頭をよぎった。
『竹千代くん、長政様はね、市が泣いているとめそめそするなって叱ってくださるんだけど、それでも最後には市の言うことを聞いてくれるの。竹千代くんも困った時に泣くのは何も悪いことではないのよ』
ワシも幼い頃はよく泣いた。だが誰も聞いてはくれなかった。
いつしか泣くことを忘れ、笑うことを覚えた。
だがお市殿、ここは貴女の言うように笑う場ではなく泣いてみる場だろうか?
ワシは意識を集中して、愛しき日の本に想いを馳せる。
そうして自然と溢れてきた涙とともに、今は日の本の国力の回復と民の安寧を約することこそが頂点に立つ豊臣のなすべきことではないのかと、そしてどうしても戦をするというのなら、危険な海を秀吉殿自らが渡る必要はない、自分が先鋒を務めると、切に訴え頭を下げた。
しんと静まりかえった部屋の雰囲気に若干居た堪れなさを感じて顔を上げたワシに、盛大にため息をついたのは官兵衛だった。
「お前さんなぁ、もっとマシな止め方は思いつかなかったのか?みんな呆れちゃってるじゃないか」
「そうそう、男の涙なんてみっともないよ、家康君。って秀吉?」
「わ、我は涙ぐんでなどおらぬぞ」
三成だけは何も言わず口を結んでいただけだったが、これはどういうことだろう?
うまく説得できたのだろうか?
安堵のため息のために息を吸いかけたその時。
「残念だけど家康君。そんなことでは止めないよ。それに当然君にも渡航してもらうつもりだ。出兵は来年の春。その頃には君の体も落ち着いているだろう?」
半兵衛殿の言葉は容赦なかった。
お市殿、やはりワシには貴女のようにうまくできなかったよ。
それならば、やはりここは覚悟を決めねばなるまい。
「ならば」
ワシは脇差しを自らの前に置いて再び床に拳をつけた。
「お二人の考えが変わらぬというのなら、ワシは今ここで腹を切る」
「家康!?」
ワシの決死の言葉に声をあげたのは三成だけだった。
それはそうだろう。三人ともいくつもこういう場面を見てきたであろうから。
深く頭を下げると、正直大きくなった腹が押されて苦しい。
けれど、武士として、みっともない姿勢は見せられない。
「家康君、わかってるよね?君が腹を切るということはそのお腹の子も道連れだってことを」
「はい。……すまない、三成…」
頭を下げたままのワシから三成の表情は見えないが、膝の上の拳が強く握られたのがわかった。
すまない、三成…ワシはお前の子を人質とするようなことをしている。
重家は健やかに育っているがいつ何があると限らない。子は多い方がいいだろう。
だから、お二人が大切にしてきた三成の子が失われることは豊臣の将来のためにも大きな痛手となり、また三成自身も生まれてくるはずの子がワシに殺されたとあらばひどく慟哭し失意に堕ちるだろう。
ここで三成の子を失うことは豊臣にとって打撃にしかならないと、ワシは確信している。
「三成君はどう思うんだい?」
「…私は、お二人の決定に従うまで」
三成の声が震えているのがわかる。
三成、お前は本当に、秀吉殿と半兵衛殿が、好きなんだなぁ。
ああ、いかん。今必要ないのに涙が落ちそうだ。
お前の子を守れずに、本当にすまない。
「ふーん、じゃあ家康君と君の子が死んじゃってもいいんだね?」
「くっ…」
半兵衛殿、それ以上三成を苦しめないでやってくれないか。
わかっている、本当に三成を苦しめているのはワシだと。
額を畳につけたままで確認することはできないが、三成はその端正な顔をひどく歪めていることだろう。
お前の子を宿しておきながらワシの勝手で道連れにすることを、どうか恨んでくれ。
そしてどうか、秀吉殿と半兵衛殿と、重家たち子どもたちが笑って暮らせる世を創ってはくれないか。
「ああ本当困ったなぁ、”家康君を失ったら”三成君がどうなってしまうのか、僕には眼に浮かぶようだよ。ねぇ孝高君?」
「な、何でそこで小生に振る!?」
「君はそのために呼んだんだよ。ほら、何とか言うんだ」
「む…そうだな、権現がいなくなった後の三成がどうなるか、そりゃあもう手のつけられないほどの自失っぷりだろうなぁ、ぅっ」
ワシからは見えないからはっきりとわからないが、どういうつもりなのか半兵衛殿は官兵衛に何かを促しているようだった。
「おい三成、よーく考えてみろ。想像してみろ。お前さんのその堅い頭でな。権現がいなくなったらどうなるか。遠い江戸にいていつでも会いに行けるってもんじゃない。目の前で刀を腹に突き立ててな、ものすごい量の血が出るのさ。なにしろ権現は二人分の血を抱えてるからな。どういう理屈かぁ知らないがお前さんの血を引いた赤子だ。これだけでかい腹になればとっくに人の形をしてるだろう。一年近く自分の腹の中で育ててきたお前さんの子を権現は自分で殺しちまうのさ。ひどいもんだ。そうして自分で殺しておきながらその赤子を守るように権現は血の海に沈んでいくんだな。お前さんはただそこで冷たくなっていく権現を眺めているだけ。もうお前さんを見つめる太陽みたいな色の瞳は見ることはできない。お前さんを呼ぶ明るい声も聞くことはできない。お前さんを抱きしめてはくれない。ん?ああこれは小生の想像だ。権現がお前さんを抱きしめたかどうかなんて知らんよ。とにかくだ。永遠に、お前さんの前から”家康”は消えちまうんだよ」
…官兵衛は本当にひどい奴だな。そんな風に三成に語って聞かせてどうする?
ワシがいなくても三成は…
「あぁぁああぁぁっっっ!!!」
突然の叫びに、さすがにワシは顔を上げてしまった。
三成が、天に向かってまるで吠えるように叫びを発している。
「家康、家康!家康ーーーっッ!!!私のそばから消えるなーーーっ!!!」
そう叫んで、真っ白になったように三成は中空を見つめている。
何が、起きたんだろう。
三成の中に、何が。
ワシは、無意識に三成に寄り添って、完全に力の抜けている三成の両頬をとらえて、虚空を見つめたままの色を失った瞳を覗き込んだ。
なんてことだ。三成、三成…戻ってきてくれ!三成!!
「三成!ワシはここにいる。ここにいるから。三成…っ!」
懸命に三成の名を呼びながら、ワシは心から三成の純粋さを知った。
あんな官兵衛の術に揺さぶられてしまうほど本当に三成の魂は清いままなのだ。
ワシの死よりも三成にとってもっと大切なことがあるのに。
「三成…みつなり……戻ってきてくれ。お前を大切に想う人たちがお前を待っているよ」
柔らかに呼びかければ、三成の瞳に色が戻り始めたのがわかった。
ワシの好きな、綺麗な翡翠色だ。
「……い、えやす…?」
「ああ、ワシはここにいるよ」
三成の手がワシの背に恐る恐る回され、肩に額が乗せられる。
ワシも、三成の背を優しく抱きしめた。
「いえやす……家康…離れるな、私のそばからいなくなるな…家康…」
まるで子どものように呟きながらワシの胸に顔を埋める三成の頭を撫で、うんうんと安心させるように頷いた。
「さて秀吉、どうする?」
「うむ。本日はここまでとする」
しっかりと自我を取り戻した三成と部屋を出た直後、ワシは体勢を崩して三成にもたれかかってしまった。
「家康?」
三成はしっかりと支えてくれたがこれは非常事態かもしれない。
長く厳しい姿勢を続けていたことと心情的に気を張っていたせいか破水してしまったようだ。
股の間から粗相をしたように濡れているのがわかる。
「家康!?」
「みつなり…う、生まれる…」
「なっ!?」
それからワシは気を失いそうになりながら何とか二人めを出産し、その後七日もの間意識がなかったそうだ。
その七日間、文字どおり不眠不休でずっと三成がワシのそばにいたと、官兵衛が教えてくれた。
その三成は今ワシの隣で眠っている。
ワシが意識を取り戻した時、目の前に三成がいたことは嬉しかったが明らかに健康状態も精神状態も限界に見えたからすぐに布団の中に引き倒した。
目が覚めたら粥でも作ってやろうかと、侍女に渡された粥を食べながら思う。
そういえば兵糧の減りが早いと怒られたことから始まったんだったなぁ。
おかしなものだ。
二人めも男子で、半兵衛殿によって重成と名付けられたという。
無事に生むことができて本当に良かった。
官兵衛はあの時のことを気にしているのか、三成が眠っている間にワシにいろいろと教えてくれた。
三成が本当に食事も摂らず一睡もせずにワシのそばから離れなかったこと、唐入りの話は無くなったこと、そもそも半兵衛殿は豊臣の未来のためにワシと三成の絆を深めようとあんな場を設けたのだろうと。自分も巻き込まれて災難だったと嘆いていた。
でも本当に気づいていないのはお前さんの方だよな、と言い残して官兵衛は行ってしまった。
何に気づいていないのか。
ワシは、心から、魂の底から三成を愛しく想っている。
それ以外に何があるというのだ。
三成の、そして子どもたちの未来の幸せを願って、ワシはこの豊臣で力を尽くしていく。
次ページはちょこっとあとがき