石田三成は、日が暮れかけた薄暗く狭い空を見上げて考えていた。
ここからどう抜け出したら良いかではなく、こんなところで時間を食い秀吉にどう詫びれば良いかでもなく、何故自分はこんなに落ち着いているのだろうと。
彼は今、深い穴の底にいた。
足元で気を失っている徳川家康と共に。
家康はつい先日、豊臣の傘下に入ったばかりだった。
竹中半兵衛の命により、年の近い者同士で仲良くねとでもいうのか、二人に偵察を任されていたのだった。
その帰り道、どこの誰が何のために掘ったのか、井戸のような深く狭い穴に二人して落ちてしまったのだ。
落ちる際、明らかに家康は自分が下になるように三成を抱えていたように思う。
いかにも丈夫そうな家康だったが、さすがに細くてもしっかり筋肉の重みがある三成と彼が纏う鎧の重さと重力の衝撃に耐えられなかったのか、穴の底で衝撃を受けた後、”すまん、ちょっと気を失わせてくれ”と言って、静かになった。
三成は少しだけ慌てて起き上がり家康を見下ろし、かくんと首を放り出している姿は本当に気を失っているようだったが、どこの世界に気を失うことを宣言して倒れる奴がいるか、とあまり不安には思わなかった。
立ち上がり、岩壁に寄りかかる。
穴のせいで狭い空を見上げた。
不思議と心が凪いでいた。
この状況に焦るのでもなく憤りもなく、ただ暮れる空を眺めていた。
何故、自分はこんなに落ち着いているのだろう。
足元に転がる派手な色の装束の男を見下ろす。
出会ってまだ数日だった。
秀吉様に刃向かい敗北した愚かな男だ、と三成は思う。
思うが蔑む気はない。
秀吉と半兵衛は彼らを殲滅するのではなく内に取り込んだ。
ということは、少なくとも何かしらの役には立つのだろう。
何か企むようなことがあれば自分が討てば良い。
三成は瞬きをひとつして、また空を見上げた。
暗くなった空には明るい星が見え始めている。
「おい、いい加減起きろ」
三成は足元の家康の投げ出された足を軽く蹴った。
「…ん…っ……ん?ああ…すっかり暗くなってしまったな、石田殿」
家康は腰をさすりながら上半身を起こして三成に笑いかけた。
すぐに目を覚ますあたり、本当に気を失っていたのか疑わしい。
「これは困ったな」
家康はあぐらをかいて暗い空を見上げながら、さして困った風でもなく言った。
三成は静かにその声音に耳を傾けた。
「石田殿、ここを出る策を練るにしてもこう周りが何も見えないのでは明日を待つしかあるまい。立っているのも疲れるだろう?座ってはどうだ?」
家康が笑顔でそう柔らかく言うのを三成はどこか安心ともとれる心持ちで聞き、素直に家康と向かい合うように腰を下ろした。
狭い穴の底だ。
三成が片膝を立てて座ると、三成の足の先と家康の膝の間にはほぼ隙間がなかった。
家康はにこりとひとつ笑うと、また空を見上げた。
空でも見なければこの距離でお互いを見つめ合うことになる。
三成は空を見ずに家康を眺めた。
特殊な加工でもされているのか、彼の明るい色の装束はわずかに光を放っているように見え、この暗い穴の底でも真の闇ではなかった。
それどころか、仄かに彼自身から光が漏れているような気がして、三成は何度か瞬きをした。
彼は光の属性だからそんな錯覚がおきたのか。
つい最近まで雷属性だったとも聞いているし、何がどうなって光に転じ自分に錯覚まで起こさせるのか。
自分は闇。相反するもの。
だが、秀吉様と半兵衛様も光と闇ではないか…
ふいに頭に浮かんでしまった恐れ多くも馬鹿げた妄想に、三成は大きく頭を振った。
「ん?どうした?…寒いのか?」
空を見上げていた家康が、三成の動きに反応して小首を傾げて顔を覗き込んだ。
確かに季節は冬の手前。
言われてみれば少し冷えてきた気もしないではない。
「何でもない」
それでも突き放すように答えたつもりだった三成だが、家康が起こした行動を見てぎょっとした。
よっぽど自分の方が寒そうな格好をしている家康が、まずは手甲をはずしそして袖のない頭巾付きの羽織を一度脱いで胸板をはずし、その豊かな素肌の上に再び羽織を纏うと、にっこりと微笑んだ。
「お前も鎧を脱いでくれ」
「何のつもりだ」
三成はいたって冷静に問うた。
家康が何をしたいのかわからないが、自分を巻き込むなと、刀を地に立てた。
だが家康は怯むはずもなく、笑って言った。
「ワシは体温が高いとよく言われるんだ。くっついていると温まるそうだぞ?本当は素っ裸で触れ合うのが温いものだが、さすがに石田殿にそこまでは言えないしな」
はははと笑う家康に、三成は険しい目つきを返した。
「こんなところで石田殿に風邪でもひかせたとあっては秀吉殿に合わす顔がない。さあ、その鎧一枚でいい」
貴様の顔など知ったことかと思った三成だが、こんなところで時間を浪費しているうえにもし体調を崩したとあっては自分も面目がない。
仕方なく胸の鎧を一枚はずし、左腕だけ武装を解いた。
左の腕を解いたのはただのいつもの癖がったが、家康は満足そうな笑顔で三成の左側に移動し、その腕に自分の剥きだしの右腕を密着させた。
触れ合った人の肌の温もりに、三成はわずかに体を強張らせた。
他人の肌に触れるなど、いつ以来だろうか。誰かと触れ合ったことなど記憶にない。
誰もかれもが自分を遠巻きに見る。
秀吉と半兵衛には信頼をいただいているとは思うが、当然ながら触れることなど許されるわけもないどころか同じ目線に立つことさえ恐れ多い。
刑部は友だが触れるという機会などないし必要性がない。
だったら、今自分に触れているこの男は。
いったい何なのだろう。
「石田殿…失礼してよいか…?」
家康は三成の反応を伺うように首を傾けながら下から見上げ、それから密着させていた右腕は三成の背中へ回し、左腕で三成の鎧をつけたままの右腕を取り、横から抱き込むような体勢になった。
本人が言うように、家康の体温はたしかに高いのかもしれない…三成は目を瞑ってその温かさを感じた。
ちょうど左腕に押し当てられるようになっている胸が一番温かかった。
静寂な森の中の更に音が遮られている穴底の中。
お互いの心臓の音が聞こえそうなほどに密着していて、それは不思議なほどに落ち着きと、そして安らぎを与えてくれた。
これは何なのだろう。
この男は何なのだろう。
自分にとって。
だが。
体温が高いとよく言われる。誰に?
他の誰かもこうやって温めることがあるのか?誰にでも?自分だけではない?
と思うと、何故か、胸の奥がちりっと痛むのを感じた。