「そんなこともわからないのか!秀吉様のためにならぬなら去れ!」
まったく、使えない男だ。
名前など知るよしもない誰かに叱咤しながら誰にも気づかれないように小さく息を吐いた。
先ほどの男は確かに使えない奴だが、私は情けないことにこの2、3日ひどく精神的に不安定なことを自覚している。
理由などわからない。
ただ、このままでは何かあった時に秀吉様のお役に立てなければ私の存在意義がない。
どうしたものかと廊下を歩いていれば前から左近が現れた。
「いやぁ、三成様荒れてますね〜あー家康さん、今三河に帰ってますもんね〜」
「家康?奴が何故関係ある?」
「え、あーいや、えーっとあ、俺ちょっと用事が…!」
「おいっ、左近!」
追いかければ追いつかないこともないが今はそんな気にはなれなかった。
精神的に不安定なことに加えて、足も重たく感じたからだ。
ああまったく、なんと情けないことか!
その日の夜は左近の一言のせいで眠れなかった。
家康がいないから何だというのだ。
秀吉様と半兵衛様のお力になれることだけがすべての私に、何故、どこに家康の名が出てくる可能性がある。
だいたい家康がいないおかげでこの数日私は静かに過ごすことができている。
この不安定以外まったくもって奴がいる時よりも調子がいい………?
あの暑苦しい顔と体と態度がないおかげで私は冷静でいられる………?
だが奴の実力は認めている。秀吉様の世を作るためには奴が必要だ………?
そう、そうだ。秀吉様のために必要なのだ。
私が不安定なのはただただ未熟者がゆえ。
私が不安定なことと家康は当然何の関係もない。
私としたことが、何故こんな一言に悩まされていたのか。
ああ、無駄な時間を過ごしてしまった。
翌日。
正午過ぎに庭で左近から伝令を聞いていると、本多の騒がしい音とともに家康が帰ってきた。
城の方から来たところを見ると秀吉様と半兵衛様にご挨拶してきたのだろう。
「三成!」
本多から降りた家康が私の方へと歩いてくる。
「三成、寝ていないのか?顔色がよくないぞ…?」
まだそれなりに距離はあるのにそんなことを言ってくる。
誰のせいで眠れなかったと思っている。
貴様の存在が私の眠りを妨げたというのに。
私は苛立ちながら家康へと向かっていった。
だいたいこの男はいるだけで鬱陶しい。
貴様がいなかった数日間は静かだったのだ。
私に小賢しいことを言う貴様がなく、私の周りでちょろちょろと動きまわる貴様がなく、私の隣で仄かにあたたかい光を振りまく貴様がなく。
静かだったのだ。
「三成?どうし…た…」
私は、鬱陶しい家康の顔を見つめた。
目の前の金色を私の瞳に映す。
「…みつなり…?」
私の名を呼ぶ柔らかな声。
その声に呼ばれると心がざわめく。どこか安心する。
だが今は黙れ。私は貴様の色を見ているのだ。
鬱陶しいほどに大きな金色の瞳。いや、秀吉様がお持ちの琥珀とかいう石のような…それも違う、あれも美しいと思ったが、これはもっと…甘い…色だ。
「うわっ、何するんだ!三成!」
家康が後ろに飛び退いて右目を押さえていた。
私は舌なめずりをする。
うむ。甘くはなかったが…もっと…そうだな。
家康の、戦には向かない戦装束に隠れていない首筋が目についた。
「いたっ、三成!何なんだ、こらっ」
家康の首に歯を立てた。
思ったよりも柔らかな肌だ。
「っ…」
もう少しだけ強く噛むと、赤い血がぷくりと滲んだ。
その鮮やかな色に誘われるように舐めてみる。
甘い、のかもしれない。
びくりと震えた家康の体を押さえ込んで、もう一度噛んだ。
「ッ!…、みつ、なり…っ、何を、して……」
しっかりと痕をつけて満足した私は家康を解放した。
私の肩に額をあてて俯いている家康の頬が赤い。
貴様、熱でもあるのか?
私はどことなく落ち着かない気持ちになり( 苛立ちや不安定とは違う何かだ)、体を動かしたくなった。
「左近、手合わせしろ!」
「へ、俺っスか?」
左近は嬉しそうにしながらもなぜか家康の方を見た。
家康は俯いたまま表情はよく見えない。
「家康、貴様は熱があるのだろう!体調不良などもってのほか!秀吉様のためにしっかり休息をとれ!」
そう突き放すと、本当に体調が悪いのかわずかによろめいた家康は本多に飛び乗り自分の屋敷に戻っていったようだ。
ん?そういえば何故真っ直ぐに自分の屋敷に戻らず私のところへ来たのだ?
何か用でもあったのか?
体が軽すぎて左近との手合わせに物足りなさを感じながら何故かあの甘い色を思い出し、自分が精神的に安定していることに安堵した。