最期に思うのは、家康様、貴方は私たち三河の主であったことを、幸せに思ってくださったでしょうか。
いえ、そうであったと、信じたい。
そして、そうあらねばならないと我らが縋り、負わせてしまったことを、私は認めなければならない。
私と貴方が出会ったのは、貴方が今川方から独立される時のことでしたね。
まだ五つにも満たない時分から織田家と今川家で、貴方はご自分の存在が国と民を守っているという重圧に耐えてこられました。
貴方が敵地で一人、何を思い過ごされていたのか、私を含め誰も知る者はおりません。
きっと貴方は、幼くその小さな心に、寂しさと悔しさと、そしておそらく確かな恐怖を抱えながら、それでもご自分の命の価値を知り、皆のためにとそれらを必死に隠して耐えていらしたのでしょう。
私が初めて貴方と出会った時、貴方はそれらを誰にも悟られまいとしながら明るく元気に未来だけを見据えて我らを鼓舞してくださった。
皆、主の帰還とその痛々しいほどの頼もしさに歓喜し、そして三河の平穏と安泰を掲げて邁進してまいりました。
そして激闘の末の豊臣への臣従、家康様はそれでも笑顔で、「安心しろ、皆はワシが守る」と言って、ほとんどの時を三河から離れて大坂で過ごされるようになりました。
歳月を経て、身体的にも成長期でもあった家康様は見違えるようにご立派になられ、他軍から見れば家康様は随分と変わったと思う者もいるかもしれない。
けれど、家康様の真の心根は少しも変わってはいなかった。
あの、己の弱さに嘆き泣いてばかりだった頃と、少しも変わらないのです。
変わったことといえば、神から授けられたお力でしょうか。
私は家康様のお力が雷から光に変わられた瞬間を知っています。
それは、家康様が心の底から、魂の奥底から大切に想う相手ができたからです。
ただひとりをあたたかく包み込みたい、しかしそれと同時に、皆を優しい光で守りたいという二つの願いが、家康様のお力を変えられた、否、家康様の本来の力を目覚めさせたのだと、私は思っています。
けれど、貴方はいつしか三河のみならず日の本全土に生きる者たちの平穏を、幸せを願うようになり、すべてを等しく照らすべき陽となることを望まれました。
幼い頃から泰平の世を願っていた家康様ですが、こんなにも強く、揺るがずに生あるあまねくものたちに情を持つようになったのはいつ、何故だったのでしょうか。
私は思うのです。それは、あの男のせいではないのかと。
家康様は元々誰に対しても平等で分け隔てなく接してくださっていた。
けれどこれは皮肉とも言えるかもしれません。あの男と出会い、真に愛するということを知ってしまったがために、家康様の愛情はより深くあたたかく、万物を照らす光となった。
もしかしたら、家康様自身が枷としたのかもしれません。
それなのに。
あの男は家康様がどれほどの想いであなたを想っていたか、知らないだろう。
あんなにも一途に、唯一の半身のように想っていたというのに。
あの男は、我らが主である家康様を虐げ、弄んだのだ。衆目の前で殴り、罵り、蔑んだ。
家康様は笑って「ワシが悪いんだ」とおっしゃられていたが、私はあの男を許せない。
たとえ家康様がどれだけあの男を慈しみ、愛しさ溢れる眼差しを向けようとも、私にとって、我らにとって、家康様は我らが守るべき主であり我らを守ってくださる主なのだ。
それをあの男は何もわかっていない。
家康様を真に、素直に幸せにできたのは、認めたくはなくてもあの男だけだったかもしれないというのに。
我らは、家康様の幸せを願いながらも、真に幸せにすることなどできないとわかっているのです。
あの男は何も見ていなかった。家康様のことも、我らのことも。
だがそれは当然だろう。あの男は所詮豊臣の者だ。
我らが家康様を思うように、あの男は豊臣秀吉だけを見ていた。
あの日、貴方はただ、「ついてきてくれるか」と。それだけを私に問いました。
あの時の家康様には微塵の迷いも憂いもなかった。
そして豊臣を離れ秀吉殿と決した日。
あの男を目にした後、背に家康様を乗せた時、あの時に一瞬だけ感じた、言葉では表すことのできないひどい哀しみを、あの男には理解できないだろう。
家康様。貴方が愛した男は、貴方を失って本当の虚無の闇に堕ちてしまった。
しかしそれと同時に、あの男は家康様を屠ったことで家康様のすべてを手に入れてしまった。
ああ憎い。
家康様、私は貴方に許されることがなかろうとも、あの男が憎くて堪らない。
貴方のように憎しみを持たぬことなどできやしないのです。
家康様、貴方は何故そんなにも、天から降りてきた神のように何もかもを独りで背負い、受け入れ、その身に刃も憎しみも受けられるのでしょうか。
できることならば、私も共にそれを背負いたかった。けれど貴方はそれを後生大事に独り抱えて誰にも渡そうとしない。
だから私は見て見ぬふりをして、貴方を支えることしかできなかった。
私はそれを、悔いてはいません。
悔いれば、貴方が哀しむから。
私はただ、貴方を肩に乗せ背に乗せ、お守りし、共に戦った日々を、心の底より感謝申し上げて、幸せだったと。
そう思うのです。
家康様の亡骸の前、ふらふらと去っていくあの男の背に、私は最後の力で槍を向けました。
気を集中させ、すべての力をこの一撃に。
家康様を連れていってしまったあの男に渾身の力で投げかかろうとした時。
ああ、なんということだ…
私の槍が、光に覆われて…
その光は私の全身をも優しくあたたかく包み込んでいく…
家康様…家康様……私もすぐにあなたの元へ参りましょう。
たとえ貴方の真の心はあの男のものとなってしまったとしても。
そうして私の槍は光に包まれて砕け、意識が薄れていくなかであの男の元へ飛んでいく、一粒の柔らかな光を見たのでした。