十五の夏、止まぬ蝉の声と沈まぬ陽

あの男と初めて顔を合わせたのは、昨年の冬だった。
秋に秀吉様に敗れ、豊臣に頭を垂れた徳川という男は、はじめから非常に私を苛立たせた。
秀吉様に刃向かい、半兵衛様のお手を煩わせた者を斬滅ではなく臣従させたという話は城内のあちらこちらで噂されていたし、徳川軍の要である本多という男を半兵衛様が欲しがっていたという噂も誰もが知っていることだった。
秀吉様のこの先に必要なのは本多であり、徳川ではない。
私はその夏にようやく初陣を果たしたばかりで、その戦いには参陣していない。
だから徳川の姿も本多も直接目にはしていないが、噂ばかりが私を通りすぎていく。
私と同じ年頃の大将。私が元服する前から奴は大将として軍を率いている。
ただし、大将とは名ばかり。方々から人質大名と蔑まれ、本多がいなければ何もできない、忌むべきほどに弱きものだ。
その弱きものが秀吉様に刃を向けたことを、秀吉様と半兵衛様は寛大なお心で許されて、首をとらずに臣従させた。
その一報を耳にした時、私はぶわりと全身の毛が逆立つほどの憤りを感じた。
秀吉様の本陣に斬り込むほどの罪、なぜ、秀吉様はそのような奴をお許しになられたのか。
いかに本多という男が戦国最強と言われようと、この私が秀吉様をお守りし、秀吉様の前に立ちはだかる愚かなすべてのものを斬滅するというのに。
私は、まだ見もしない徳川という男に苛立っていた。

寒い冬の朝。
庭先に怪しい影があった。
木の根元にうずくまるようにしゃがんでいるその背中はまだ子どもだった。私と同じくらいかそれよりも下か。
着ているものも悪くはない。町の子どもが戯れに紛れ込んだわけではないだろう、そんなことはこの豊臣の城に有り得ない。
どこの小姓だ、と私は刀の鞘をそいつの首に突きつけた。
「…………」
「答えろ」
「……うん。ワシはな、この亡き骸を埋めて弔ってやれる腕もない」
「……?」
何を言っているのか、私はしゃがむ子どもの横に立った。
子どもの前には一羽の小鳥が落ちていた。
寒さに耐えかねて死んだのか、見るからに固くなっている。
そして子どもには二本の腕がある。
私には何を言っているのか理解できなかったが、そんなことはどうでもいい。
「貴様は誰だと聞いている。答えぬのならば斬る」
私はもう一度、鞘を首に深く押し当てた。
「ワシは……まだ籠の中の小鳥と同じなのかもしれねぇな……」
ふん。小姓に取り立てられた恩を恩と感じない愚か者め。私がこの場で斬り捨てても構わないが誰のものとも知れぬものをさすがに骸にするわけにはいかない。
「なぁ、おめぇ、こいつを埋めてやってくれねぇか」
いささかはっきりと先よりは明るい声でそう言った子奴に、自分でやれ、と言う前に子どもは立ち上がった。
そして俯いたまま顔を見せずに立ち去った。
少しだけ見えた横顔の子どもらしい丸い頬が、濡れていたように見えた。
私は地面に伏せるその鳥であったものを一瞥して、その場を離れた。

あとからあれが徳川家康だったと知った。
家康様、と家臣に呼びかけられている奴を見た。
あの時のような泣き顔ではなく、能天気に笑いながら話していた。
なるほど、あれでは天と地が逆さになっても秀吉様にかなうはずもない。
その数日後。半兵衛様に書物の整理を渡されていたところへ、「半兵衛殿、ちょっといいか」などと気安く話しかけてくる不届き者は誰だと振り向けば、それは徳川だった。
「ああ、家康君。ちょうどよかった。君に頼みたいことがあったんだ」
「ワシの方が話があってきたのにか」
徳川は恐れ多くも半兵衛様に口答えをし、拗ねたように唇を尖らせてみせた。
だが、ちらりと私を見ると、
「まあいい。ワシの話は後で聞いてもらおう。それで?」
と不遜な態度をとった。
この時点で私の苛立ちは地を裂くほどだった。
私のことはいい、半兵衛様に対してその態度は許されん!
しかし半兵衛様は何も気にした風もない。それどころかご機嫌よく笑みさえ浮かべておられる。
徳川は半兵衛様の御恩につけあがって態度が大きくなる。なぜ許される。なぜ半兵衛様はお叱りになられない。本多さえあれば貴様のような弱きものなどいらぬとなぜおっしゃられないのだ!
「三成君。ちょっと抑えて」
「……は?」
私が、叱られた……?
「あはは、ほら、面白い子だろう? ひどく君を睨んでいたかと思えば今度は僕に叱られたと思ってこんな呆けた顔をして」
「は、半兵衛、様……?」
「ふむ。おめぇ、正直で真っ直ぐな奴だな」
正直……? 真っ直ぐ?
「そう。本当に困っちゃうくらいでね。というわけで家康君。君に頼みたいこととは、三成君と一緒に彼が抱えている書物を片付けてほしいんだ」
半兵衛様は思いがけないことをおっしゃって、徳川が私の腕に抱えられている書物の山を見てなぜか嫌そうな顔をした。
「半兵衛殿、つくづくおめぇは嫌味な奴だな」
「貴様!! 半兵衛様に詫びろぉっッ!」
私は考える前に叫んでいた。
このような無礼な態度が許されてたまるものか!
「三成君、いいから。彼は本当のことを言っているしね」
半兵衛様は笑ってそう私を窘めた。
だが、いくら半兵衛様が許されようと私は許さない。このようなものをなぜ……!
憤慨する私の前に、ふいに子どもの手が差し出された。
「ワシは徳川家康。挨拶が遅れた。よろしく頼む、石田殿」
私は言葉が出なかった。一瞬頭の中が真っ白になった。
徳川は、朗らかに笑って、私を真っ直ぐに見た。
その笑顔を、なんと表現したらいいのか。
あるいは、それは、私の知らない『光』だったのかもしれなかった。
「ああ、悪ぃわりい。それを持ってたんじゃ握手なんてできなかったな。どれ、ワシも半分持ってやろう。元々ワシのものだしな」
私の腕から重なる書物を奪った徳川は、「半兵衛殿、石田殿は石仏になってしまったようだが大丈夫か?」などとほざき、半兵衛様は苦笑していた。

それから一ヶ月後。
半兵衛様の命で、家康と陣を張った。
奴の戦いぶりは悪くはない。悪くはないが生ぬるい。
私の後ろには命あるものなどないが、奴のあとには逃げ惑うものや呻きながら生命に縋りついているものたちがいた。
そのうちに戦場を共にすることが増えた。
生ぬるさは相変わらずだが、家康と共にあれば敗北など有り得ない。
そんなことを思うようになっていた。

うだるような夏の日。
大きな戦をした。
長きにわたり秀吉様を愚弄していた領主を落とすために遠征してきたが、最後のあがきとばかりに抵抗が激しく、ついに半兵衛様から殲滅を言い渡されていた。
当然勝利はおさめ、敵の大将の首もあげた。だが、豊臣軍の被害も大きかった。
先鋒を務めた家康の軍はもっと多くのものを失っただろう。
散らばる敵味方ともつかない無数の屍を背に、家康はへりに立っている。
この暑さでは腐乱も早いだろう。穢れた地にいつまでも留まることはない。
帰るぞ、という意を込めて私はその背に近づいた。
「なあ三成。夕陽が真っ赤に染まって綺麗なものだな」
家康は私に背を向けたままそう言ったが、私は答えなかった。
夕陽が綺麗などと。
そのような感傷に浸る意味がわからない。
それでも、私は家康が見ている沈む陽に目を向けてみた。
その時、初めて気づいた。
私は夕陽というものを見るのは初めてだった。
当然目にしたことはある。だが、意識して『これが夕陽か』などと思ったことはなかった。
ただ、それだけだ。
そこに何の感情も湧くことはない。
「ワシにはな。こんなに綺麗な夕陽を見られるのは、あの空が、陽が、多くの血を吸ったからだと思える。そして同時に、弔いの火にも見える。三成、お前にはどう映る?」
私に問いかけておきながら、私の方は見ようともしない。
それとも、自分の顔を見られたくないだけか。
家康は、私の答えなど必要としていないと、そう思った。
そしてそれを、今になって悔いている。
あの時、私が何かを答えていたならば、家康が私の心を真に問うていたならば。
私は真の闇を知ることなどなかったのかもしれない。
「はは……夕陽ってものはどうにも心を抉られるなぁ」
一見、呑気な口調にも聞こえるその言葉に、また私は答えなかった。
同意も否定もできなかったからだ。
「だって朝陽を見て悲しい気持ちになるものはそういないだろう?」
「知らん。そのようなこと、考えたこともない」
私はようやく家康の言葉に答えた。
このままひとりで話を進められるのはどこか癪だと感じたからだ。
私と共にあるというのに、家康は私を見ていない。
「そうだろうな。おめぇにとっての光は秀吉殿だろうからな」
ようやく顔半分だけ私に向けた家康は、静かに笑っていた。
どこか、眩しそうに。
すぐに前を向き直した家康は、あかく染まる空に大きな目を向けて、拳を握りしめた。
「……ワシは決めた。落ち込むのをやめた」
毅然とそう紡がれた時、突然おびただしいほどの蝉の声が聞こえた。
近くに森はない。
まるで、そこらじゅうの無数の屍体から聞こえてくるようで不快だった。

「ワシは、陽になりたい」

家康は、そう、言ったかもしれない。
言っていないかもしれない。
その言葉は、蝉の声と、霞に包まれて、私には届かなかった。

私は鳴り響く蝉の声を遮るように声を張った。
「家康、私を見ろ」
今さらにびくりと肩を震わせた家康は、ぐしっと腕で目元を擦り、振り向いた。
私は私を見上げる家康の瞳に、息をのんだ。
濡れた家康の瞳は、このような色だっただろうか。
黄金の。
それは深い光と、やわらかな心地よい生温さを持っていた。
「行くぞ」
私はそれだけを口にして踵を返すと、数歩遅れて家康の足音が聞こえた。
同じ場所へ、私と家康は共にかえるのだ。
秀吉様と半兵衛様が待つ、あの場所へ。

あの日の家康の覚悟は、数年後、これ以上ないほどの絶望と憎しみの昏い闇底に私を突き落とすことになった。