世には小さき、いのちのつぐみ

関ヶ原の戦いから五年。
徳川幕府を開いた徳川家康は、二年で将軍職を辞し養子とした秀忠を二代将軍に据えて、自身は大御所として駿府に過ごしていた。
その大御所様である徳川家康が、懐妊した。

 

その日、城の奥殿はひどく慌ただしく緊張感が漂っていた。
私は、家康が寝かされている部屋の隣室で座してただ待つだけだった。
あれは半年前だったか。
この奥殿の閨で家康が言った。
自分は妊娠しているらしい、と。
ふざけているのかと殴りとばそうとした私に、お前の子だと家康は叫んで泣いた。
あれの泣き顔を見たのは三度目だった。
裏切りに、奴の罪に、消せない憎しみだけを抱いて家康を目指した。
この世の全てを憎み、許しはしないと虚空に叫び、ただひたすら家康の首だけを求めたあの日々。
だが、私の悲痛は叶わなかった。
関ヶ原の地において私は奴に敗れ、地に沈んだ。
このまま私はすべてを失ったまま、ただ土と化していくのかと。
憎しみは止まらなかった。
全てが憎い。家康の全てが憎い。だがもう奴の首を落とすこともできない。命を奪えない。
全て奴の思いどおりになる。
秀吉様を無きものとし、矛盾だらけの絆とやらに浮かされた世に。
憎い。許さない。
この怨嗟が刃となって奴の首に食い込まないものかと、そう念じた時。
私はあり得ないものを見たのだ。
倒れ伏す私の横に座り込んだ家康が、泣いている。
奴の顔なら何でも見た。
嘘のまとわりついた笑顔、とぼけた顔、敵を屠る時の苦し気な顔。
真実の笑顔も見たことはあるが、泣いた顔だけは見たことがない。
声を押し殺して泣くその姿に、私ははじめて気づいた。
私が求めていた、本当のもの。
私が失いたくなかった、本当の。
私は手を伸ばした。
つもりだったが、それは僅かに動いただけだったのだろう。
それでも、私の存命に気づいた家康は、零れ落ちそうなほどに目を見開いて、そして私を生かした。
表向きには処刑された私は、家康と共に生きることを望み、奴もそれを認めた。
そして家康が成す世のために、私は影となり近くへ遠くへと動くこととなった。
それとともに、家康と情を交わすようになったのはすぐだった。
奴との戦いでろくに体を動かすこともできなくなっていた私が、動けるようになってはじめにしたことが奴を組み敷くことだった。
あの時のあれの顔は今思い出しても可笑しくてたまらない。
抵抗はされず、ただ泣きながら私の名を呼ぶ家康の、最奥は熱かった。
そうして常習的に家康と体を重ねるようになっていたあの日、あの言葉を放たれたのだ。
にわかには信じがたかったが、家康自身も混乱していて、ここにいるんだ、と私の手を取りわずかに膨らんでいる自らの腹の上に乗せた。
家康の肌のぬくもりと、だが確かに手のひらにそれを感じた。
私が恐れて手を離すと、家康がお前の子だ、と言う。
お前としか契っていないのだから、お前の子だと。
どうしたらいい、と家康は私の膝で泣いた。

家康の体がどうなっているのかは理解できなかったが、産めるものならば産めばいいと言った私に、家康は目を見開いて、本気かと問うた。
私は家康の柔らかな口を吸い、足を開き、抱いた。
どうせなら何度でも孕めばいい。

人智を超えた現象に、城の本当に信用できるわずかな者だけにそれを報告し、私に告げてからひと月もしないうちに家康はこの奥殿へ引っ込んだ。
不自然に腹が出てきたのを隠せなくなってきたからだ。
元々表立っては政はしていなく、姑息に二代目に指示していただけだ。
体調が思わしくないという理由をつけて奥殿に移った家康は、変わりなく政を続けた。
私は遠出を避け、その日のうちに帰れる任務だけを遂行した。
さすがの家康も自身の体がいったいどうなっているのか不安なのか、私と共にでなければ眠りにつくこともできないでいた。
日に日に膨らんでいく腹を、家康は目を細めて撫でていた。
お前も触ってみろよと、促されて触れ、耳を寄せて、ひそかな鼓動を聞いた。
私は何とも言えないもどかしさのようなものを感じたが、正直実感は何もなかった。
おのこだろうか、おなごだろうか、と微笑む家康に、どちらでもいいと答えた。
どちらでもお前に似れば大層な美人となるのだろうな、と言うから、貴様に似れば丸々とその煩わしいほどに大きな瞳が愛愛しいのであろうな、と言うと、何故か家康は顔を真っ赤にしていた。

産み月となった家康は、毎日のように吐き気をもよおし、眠りも浅くなり、私が側にいなければ不安定になり、家臣や女中に当たり散らすこともあり、それは以前の家康ならば断然有り得ないことであったために、奴らは怯えていたし、誰よりも家康自身が己を責めただろう。
もういい無理をするなと言えば、頑なに首を振ってただ私にしがみついていた。

私は、昨夜、『産綱』を用意させられた。
天井から吊るしたその綱に掴まって産むのだという。
家康がこれに掴まるのかと思うと、どこか滑稽に思えた。

男子禁制と言われ部屋を追い出された。
ふざけるな、家康も男であろうが。

一体ここで何刻待ったか。
時折、家康の呻き声が聞こえた。
老婆たちの、殿、もう少しですなどという声も聞こえる。
目にしていないからわからないが、家康は本当に子を産もうとしているのだろうということだけがわかった。

寸瞬、静まりかえったと思った直後、小さく赤子の鳴く声が聞こえた気がした。
ややあって、今度ははっきりと聞こえた。耳を塞ぎたくなるほどの大声だ。

「三成様!元気なおのこですよ!」

襖の向こうからそう叫ばれる。
私は立ち上がり、襖を勢いよく開けた。
入室の許可が出るまで開けてはならぬという老婆の言葉も忘れて。
斯くして、私の目の前に広がったのは戦場だった。
真っ白だったはずの寝具は血の海となり、そこに家康が沈んでいる。
私の中に激情が駆け抜け、得物に手をかけた。ここにいるすべての人間を、家康以外の不要な奴らを斬り殺そうと思った。
だが、わずかに顔をあげた家康が、私に微笑みかける。

「…っつ、なり…、おさ、めろ……、ワシは、…大丈夫、だ…」

私は家康に駆け寄りそのぐったりと力の抜けた体を起こした。

「家―――」
「三成様!殿の頭を下げないようにそのままお願い致します!」

私の言葉を遮って老婆が私に命令した。
貴様、何のつもりだ!

「産後は七日間頭を下げてはなりません!」

わけのわからない老婆の言葉に苛ついたが、だが私は今はそれよりも家康だった。
顔中にも、乱れた夜着の合わせから見える胸元も汗でぐっしょりと濡れ、腰から下は血まみれだった。
戦場でさえ家康のこんな姿は見たことがない。
私は震えていたかもしれない。
こんなことのために、家康が私の元から消えようものなら憎んでも憎みきれない。
家康は静かに微笑み、私をただ見つめている。
家康の、汗に張り付いた前髪を撫であげたとき、老婆が私と家康の前に何かを差し出した。

「殿、三成様。おふたりのややですよ」

それは白い布に包まれた、小さな物体。
私は恐らくはじめて赤子というものを見た。
いや、はじめてではないかもしれないが、意識したことがない。

「三成…かわいいな」

家康はそう言ったが、私にはわからない。そんな趣などない。

「さあ、三成様。殿は私らが支えますから、どうぞこの子を抱いてあげてください」

これを、抱く…?
こんな小さなものを、一瞬で捻り潰してしまえそうなものを私の手に?

「ふふっ、三成、お前顔が怖いぞ?ややも怯えているじゃないか。三成、その子を抱いてやってくれ」

顔を強張らせる私に、家康が柔らかに笑んだ。

「三成…、触れてみてくれ。その小さな命に。ワシが命がけで産んだんだぞ?お前の子だ、軟弱に見えても潰れはしない。ああ、いや、だが慎重に頼むぞ?」

女中たちによって整え重ねられた布団の上に家康の上体を置くと、老婆が私の空いた両手にその小さな物体を乗せた。

重い。

こんな小さなものが、ひどく重く感じた。

まだ目が開いていない。
口元は家康に似ているかもしれない。
私の手の上で、それが、小さく身じろぐ。
私はふと、怖くなった。そして何か苦しいものが胸からこみ上げてくる。
人の命を屠ることに何の意識もなかった私が、この小さな命を、失いたくないと思う。
家康が築いたこの泰平の世に、生きればいい。

「みつなり…?」

家康が、ただでさえ大きい目を見開いて私を見上げていた。
そして、くしゃりと顔を歪めて笑う。

「ああ…産んでよかった…」

家康の手がゆっくりと伸ばされて、私の頬に触れた。
私の頬は、濡れていた。

 

 

重家と名付けたその子は、三年の間私と家康の手で城で育て、その後町民として降りることになった私が片親となり育てた。
当然私一人ではままならず、城から預かってきた女中達の世話にもなった。
私は城と町での二重生活をし、家康も時折城を抜け出しては会いにきていた。

あれからも家康とは変わらず体を重ねていたが、二度と子を宿すことはなかった。

それがどこか寂しくもあり、嬉しくもあった。
家康は私だけのものだ。
たとえ私と家康の子であっても、それは決して許さない。
私だけの。
私と共にあるべき、私だけの魂。